実務者研修教員講習会(上級)は、実務者研修教員講習会(上級)協会が執筆しています。
福祉による葬送の可能性
実務者研修教員講習会
日本は少子社会として近代社会が目指した近代産業型の社会構造を変革していくパラダイムにある。さらに、戦後の人口増大の結果として起きている高齢社会という局面にもある。高齢社会は自ずと多死社会を意味しており、その流れは今後20年ほどは続くと思われる。その後も多死状態は続き、生活スタイルの多様化は葬送における従来の様式が通用しなくなる状況にある。端的に言えば、すでに増加している直葬(施設や病院から直接火葬場に送られる形式)が暗示している。
核家族化は個人化をもたらし、親族や家族や送るという葬送は維持できなくなっている。独身で亡くなる方が増加することで、葬送は福祉の領域に組み入れられることを拒否できなくなっているのだ。すでに述べたように、独身での死ばかりではなく、家族がいたとしても葬送を営める状況にない場合、事実上葬送は福祉が介入するべき事態であるといえる。
そこで、葬送はすでに福祉の一つの局面であり、家族葬を含めた葬儀場での葬送や無葬式とは別に、施設や病院における福祉葬(お見送り葬)が全国的に保証されるようになるべきだろう。
けあの学校
自営・自由業志向と適性重視の傾向
けあの学校 実務者研修教員講習会
日本においては、職業選択の際に「自らの適性に合い、能力を発揮できるかどうか」が、きわめて重視される傾向にある。これは多くの調査結果に裏付けられているが、なかでも印象的だったのは、日米仏三国の女子大学生を対象とした「就職観」の比較調査である。
調査によれば、アメリカの女子学生が最も重視したのは「収入の多さ」(58.1%)、フランスの学生では「社会に貢献する仕事」(42.2%)だったのに対し、日本の女子学生の81.1%が「自分の能力や個性を発揮できる仕事」を選んでいる。これは他国を大きく上回る数値であり、日本の若年層の職業観における特徴を鮮明に示している。
一方で、成人男性を中心とする世代では、職業の安定性を重視する傾向が根強い。特に1970年代の石油危機を経てからは、公務員や教員志望の大学生が増加し、専門資格の取得を目指して専修学校へ進学する若者も増えている。就職に有利とされる技能・知識の獲得が求められている証左である。
それでもなお、自営や自由業といった職業形態に魅力を感じる人は多く、自らの適性や能力を生かした「好きな仕事」を追い求める志向は衰えていない。雇用関係による拘束からの解放、自主性の発揮、自己表現の自由——こうした利点が自営・自由業への希求を支えていると考えられる。
実際、統計データもその動向を裏づける。たとえば1980年(昭和55年)の国勢調査によれば、小売業主は5年前と比べて約25万人増加し、21%を超える伸びを示した。卸売業主は約15%、飲食店主は約25%の増加である。さらに、将来の独立を視野に入れる調理師や美容師といった職種でも、同期間においてそれぞれ約22%、30%の増加がみられる。
自由業においても同様の傾向がある。文芸家・著述家は36.5%、音楽家は40.7%増加しており、職業スポーツ選手にいたっては77%の大幅増となっている。さらに、農林漁業従事者を除いた非農業就業者の中に占める自営業主の割合は、微増ながらも上昇傾向にある。すなわち、自営・自由業志向は数字のうえでも確かな広がりをみせているのである。
雇用主導型社会の成立とその意味
とはいえ、現代の産業社会において職業の中心的な形態が「雇用」であることに変わりはない。多くの人々は、企業や団体といった組織に所属することで職業生活を営んでいる。その中で、自ら組織を率いて経営を担うのが自営業主であり、雇用されて職務を遂行する者が従業員である。
近代産業社会の発展にともない、従業員の数は急速に増加し、ピーター・ドラッカーはこのような状況を「従業員社会」と名づけた。ドラッカーによれば、先進諸国において経済的な生産の85~90%は、給料や賃金という形で従業員に分配されている。もはや現代の企業活動は、従業員の利益のために機能しているとも言え、「従業員こそが唯一の資本家」とする彼の言葉は、そうした構造を的確に表現している。
しかし、どの職業にも悩みはある。自営業主や中小企業の経営者は、景気変動や資金繰りに常に神経を使い、経営判断に責任を負う。ある調査では、商工・サービス業の経営者の約4分の1が「必要な資金の不足」を職業上の主要な障害として挙げている。加えて、投資に見合う収益を得ること自体が、社会や経済の変化に翻弄されがちな現代では、より困難になってきている。
これに対して従業員、すなわちサラリーマンは、安定した収入というメリットを享受できる。「寄らば大樹」の例えのとおり、経営責任を直接負う必要はなく、人生設計のうえでは有利な立場にある。娘の婿にはサラリーマンを、という古い言い回しは、まさにこの安定志向を反映している。ただしその一方で、職務上の上下関係や、技能不足による再就職困難への不安といった「我慢の職業」としての側面も同時に語られてきた。
サラリーマン社会と企業間格差
サラリーマンという職業形態は、長らく「高収入ではないが安定的」という評価を受けてきた。しかし、高度経済成長期以降、物価上昇に対応するかたちでベースアップが常態化し、労働条件も整備され、賃金の「高水準での安定」が実現されてきた。
戦後日本では、労働時間、休日、定年制、年金制度といった雇用条件の整備が進み、雇用者としての身分保障が着実に制度化された。たしかに経済変動や企業倒産によって不安定な立場に追い込まれた例もあるが、全体としては「会社に所属している限り、生活は安泰」という信頼感が浸透している。
ただし、この「安泰」の中にも二つの問題が存在する。ひとつは企業間における格差、もうひとつは組織内での競争である。特に前者は、業種や規模を問わず顕著であり、長らく「経済の二重構造」として論じられてきた。
たとえば、1980年度のモデル賃金調査によれば、大卒男子の30歳時点の賃金を大企業(従業員3000人以上)を100とした場合、中小企業(1000人未満)は86%、40歳では82%まで開く。さらに、労働省の統計によれば、従業員規模1~4人の小規模企業の定期給与水準は、大企業の57.5%に過ぎない。賞与ではさらに差が広がり、大企業の4分の1にとどまる。
このように企業間での賃金・労働条件の格差は、サラリーマンという一括りでは語りきれない多様性を内包している。近年の社会調査では、職種(ホワイトカラー/ブルーカラー)だけでなく、勤務先の企業規模によって分類することの重要性が指摘されている。
特に、大企業のホワイトカラー層は、現代社会における中間層の中核として注目される存在であり、以下に詳しくその実態を検討する必要がある。
組織内競争と中間層意識の変容
大企業に勤務するホワイトカラー層が直面する問題は、もはや単なる上下関係にとどまらない。むしろ、近年は昇進・昇給をめぐる厳しい選別の制度が、職業的な障害として強く意識されるようになってきている。
たしかに、サラリーマンの特性として収入の安定は魅力的であり、長期的な人生設計を可能にする。しかしそれは、もう一つの日本的制度、すなわち年功序列と終身雇用によって支えられてきたものである。組織内での地位が勤続年数とともに着実に上昇していくという見通しがあったからこそ、中流意識が安定的に形成されていたのだ。
こうした日本型雇用慣行が揺らぎを見せるなかで、今後のサラリーマン社会、特に大企業ホワイトカラー層がどのような職業的展望と自己意識を抱くのかが、大きな課題となっている。
役割の遂行と成果主義
現代のサラリーマン社会において、職場で求められるのは単なる従属ではなく、与えられた役割に対する積極的な遂行である。単に命令を待ち、受動的にこなす姿勢では、評価されにくくなってきている。むしろ、自律的な判断力や柔軟な対応力が重視され、成果に基づく評価がますます制度的に組み込まれている。
このような成果主義的傾向は、かつての年功序列に基づく処遇制度と鋭く対立するものである。長期的な勤続による安定した昇進というモデルは、1980年代以降、とくにバブル経済崩壊後の経営効率化の流れの中で大きく揺らいだ。企業は人件費の最適化を求め、より短期的な成果や貢献度に応じた評価・報酬制度を導入するようになってきたのである。
これにより、組織内における競争は一層激化し、「中流」としての安定的な自覚を支えてきた基盤が次第に崩れ始めた。同時に、従来のような集団的同質性に支えられた職場文化も変質しつつあり、個人のキャリア戦略やライフスタイルの多様化が進行している。
したがって、今日のサラリーマンに求められるのは、「組織の一員」としての忠誠心や協調性だけではない。むしろ、自らの職務を主体的に捉え、期待される成果を意識して行動するプロフェッショナル性が問われている。これは日本型雇用に対する意識構造の変化を象徴するものであり、サラリーマンという職業形態の再定義を促すものでもある。
中間層と社会構造
このような職業意識の変容は、より広範な社会構造の中で「中間層」が果たしている役割にも影響を及ぼしている。高度経済成長期以降、日本社会では「一億総中流」という言説に象徴されるように、大企業ホワイトカラー層を中心とした中間層が社会の安定と秩序の中核を担ってきた。
この中間層は、安定した雇用、一定水準以上の教育と文化的資本、住宅や消費生活の確保といった特徴を持ち、「社会的モラトリアム(猶予)」とも言える存在であった。すなわち、下層階級のような経済的不安からも、上層階級のような責任と緊張からもある程度距離を保ちつつ、安心して生活設計を立てられる社会的位置にあったのである。
しかし、1990年代以降、バブル崩壊とともに経済の長期低迷が続き、グローバル化と新自由主義的改革が進展する中で、中間層の「一枚岩性」は崩れ始めた。とりわけ非正規雇用の拡大や企業間格差の深化、世代間格差などが重なり、「中間層内部の分化」という現象が顕著になっている。
たとえば、同じホワイトカラーであっても、正規雇用と非正規雇用の待遇格差は大きく、また企業の規模や業種によって生活水準や将来展望には歴然とした差がある。また、かつては「持ち家」「教育投資」「安定就業」といった中流の指標であったものが、いまや一部の人々にとっては遠い目標となっている。
このように、中間層はもはや均質な集団ではなく、多様な階層的分岐を内包する構造となっている。にもかかわらず、人々の自己認識としての「中流意識」は依然として強く残存しており、この現実との乖離が、社会的な不満や政治的不安定性の温床となるリスクもある。
したがって、現代日本社会において中間層をどう捉え直すか、そしてその変容が職業構造や価値意識にどう反映されているかを分析することは、きわめて重要な課題となっている。
階層移動と教育
教育は、現代社会における階層移動の主要な経路とされてきた。とりわけ戦後日本社会においては、高度経済成長を背景に「学歴による社会的上昇」が広く可能であるという期待が共有されていた。この認識は、教育を通じて平等な機会が保障されるという「能力主義(meritocracy)」の理念と深く結びついている。
実際、日本の戦後の教育制度は、義務教育の普及と高等教育機関の拡充を通じて、比較的短期間のうちに大規模な学歴上昇を実現した。特に大学進学率の上昇は、サラリーマン層を中心とする新中間層の拡大と並行して進行し、「教育→職業→地位獲得」というパスが多くの人々にとって現実的な選択肢となった。
しかし1990年代以降、この「学歴=成功」という図式には陰りが見え始めた。大学進学者の増加が就職の保証につながらなくなり、学歴の経済的リターンも一様ではなくなっている。さらに、家庭の経済力による教育格差の拡大が指摘されるようになり、教育がもはや「社会的平等の装置」ではなく、「再生産の装置」として機能している側面も強まっている。
とくに私立大学への進学率や、学習塾・予備校・留学などへのアクセスにおいて、家庭の文化資本や経済資本が大きく影響を及ぼしており、いわゆる「教育の階層化」が顕在化している。このことは、階層移動の可能性が制度的には開かれていても、実質的には出自による再生産のメカニズムが温存されていることを意味する。
したがって、教育が本来持つべき「機会の平等」の機能をいかに回復させるかが、今後の政策的課題として問われている。
ジェンダーと職業選択
ジェンダーもまた、職業的地位の獲得と階層構造を考えるうえで不可欠な視点である。日本社会においては、長らく性別役割分業が強固に維持されてきた。すなわち、男性が「主たる稼ぎ手」として企業にフルタイムで勤め、女性は「補助的な働き手」あるいは「家庭を守る存在」として位置づけられてきた。
このような制度的・文化的枠組みの中では、女性の職業選択や昇進機会は著しく制約されてきた。たとえば結婚や出産を機に退職することを前提とした「腰掛け就職」や、非正規雇用への誘導など、女性の労働参加は構造的に限定されていた。
1980年代以降、男女雇用機会均等法の施行や育児休業制度の整備、さらに21世紀に入ってからの女性活躍推進政策の影響を受けて、女性の社会進出は着実に進展している。高学歴女性の増加や管理職登用の促進など、表面的にはジェンダー平等が進んでいるように見える。
しかし現実には、「ガラスの天井」や「マミートラック」といった構造的障壁が依然として存在し、実質的な機会不平等は根強い。とくに育児や介護の負担が女性に偏る現状では、キャリア形成における中断や制約が避けがたく、職業上の地位上昇に対して継続的な影響を及ぼしている。
ジェンダー平等の実現は、単なる制度改革だけでなく、社会規範や職場文化の変革を伴うものでなければならない。つまり、個人の自由な職業選択とキャリア形成を保障するためには、ジェンダーに内在する「見えない構造」を問い直すことが必要なのである。
地域格差と雇用構造
地域間の経済格差も、職業構造や階層形成に深く関わっている。高度経済成長期においては、都市部、とりわけ首都圏や近畿圏、中京圏などの大都市圏に産業と人口が集中し、農村部や地方都市との間で顕著な発展格差が生じた。
この都市集中型の成長モデルは、若年労働力の都市への流出を促進し、地方における雇用の質と量を著しく低下させた。とりわけ地方では、製造業の空洞化や第三次産業の低賃金化が進行し、地域に根ざした職業キャリアの展望が見出しにくくなっている。
さらに、地方の教育機関から大都市の大学へ進学した若者が、そのまま都市部で就職・定住するという「地方の頭脳流出」現象も顕著である。このような構造は、地域の人的資源の再生産を困難にし、結果として地域社会そのものの存続基盤を揺るがす要因となっている。
一方、リモートワークやテレワークの拡大などにより、都市への一極集中に対する新たな対抗軸も模索されている。しかし、実際には高付加価値の雇用機会が都市に集中しているという構造は大きく変わっておらず、地域における安定した雇用の創出とキャリア形成の支援は、依然として喫緊の課題である。
地域格差は、単なる経済的問題にとどまらず、生活機会や文化資本の分布にも深く関わる。したがって、地域間の職業構造の不均衡を是正するためには、産業政策・教育政策・インフラ整備を含む包括的な地域再生戦略が必要とされる。
技術経営の手帳 · 技術の統治と人間の統治
技術(technology)は、人類に様々な可能性を与えてきた。その範囲と影響力の大きさは限度がなくなりつつあるようにみえる。
しかし、技術は自らの意思を持つわけでも、それ自体で成長したりすることもできない。技術は統治することもできる存在である。
技術が人類によって統治可能だからといって、その統治を行えるというわけではない。
技術は、そもそも知識である。知識は人間と切り離して存在することはできない。
そして、技術は科学とは異なる。技術はあくまで科学知識を人間の特定の目的のために再構築したものである。
故に、技術は二重の意味で人間社会から切り離すことができない存在である。
このように人間と切り離すことができないという性質から技術は統治が困難になっている。人間は不可思議の塊で、さらにその人間が複数人集まれば週癌・社会が形成される。
人間一人でも予測や統治が難しいが、社会という単位になるともはや統治は部分的にしかできない。完全に人間や社会を統治するという幻想を持つのが全体主義である。
統治の対象が人間・社会であれば、部分的にでも統治できているのであるから問題ないが、技術は完全統治できなければ問題が生じる。
なぜなら、技術は一粒でも取りこぼせば社会全体、人類の命運を途絶えさせるような力を持っているからである。
技術を統治することは今後、人類の歴史を永らえさせるために構築せねばならない知識なのだ。